サーロー節子さんインタビュー「I have to break the silence」プライバシーを犠牲にして訴え続けたトロントでの活動

講演の時にはいつも持っているという被爆時に広島女学院に通っていた学生や教職員の名前が書かれた黄色い布を広げて説明するサーロー節子さん。2025年7月5日、ハミルトン市。撮影 三島直美/日加トゥデイ
講演の時にはいつも持っているという被爆時に広島女学院に通っていた学生や教職員の名前が書かれた黄色い布を広げて説明するサーロー節子さん。2025年7月5日、ハミルトン市。撮影 三島直美/日加トゥデイ

 アメリカ留学でのつらい経験を通して被爆証言の重要性を確認したサーロー節子さん。結婚して新たな生活の場となったオンタリオ州トロント市で本格的な平和活動へと取り組んでいく。

 話の中で「もう我慢できない “Break the silence”」と活動家気質な一面をのぞかせた。「誹謗中傷を受けても発信していく覚悟」と「行動せずにはいられない性分」。トロントから平和を発信する活動家「サーロー節子」さんの本領はここからだった。

“I have to break the silence”これが私のモットーになった

 カナダ人男性と結婚して住んだのがトロント市。結婚式を挙げるまでにも戦いがあった。当初は留学先だったバージニア州での結婚を考えていた。しかし、当時白人と非白人の結婚はバージニア州では「違法」だった。ならばと結婚相手の家族がいるトロントでの結婚を望んだ。そこにも壁があった。1955年当時のカナダの移民法ではアジア人などの非白人系の移民を厳しく制限していた。サーローさんによると「結婚式を挙げるための入国はできなかった」という。そこで、バージニア州に近いワシントンDCで結婚式を挙げ、ナイアガラを通ってカナダに入国した。「核の問題だけではなく人種問題でも苦しめられました」

 移住したトロントは「静かで平穏な町」だった。それは日曜日には教会以外活動していないのではないかと思えるほどの町の静けさというだけではなく、原爆について無関心という静かさでもあった。

 トロントではトロント大学大学院でソーシャルワークの修士課程を修了した。その後日本に帰り、再びトロントに戻ってきたのは1962年。町は「相変わらず静かでした」。8月6日が来ても「新聞もテレビも何も伝えない。そういう時は主人と一緒にカヌーを漕いで、私が流す涙を彼がぬぐってくれる、そういう日々が何年か続きました」と穏やかな笑みを見せた。

 カナダでの広島・長崎原爆投下への意識の低さに驚いていた。「しばらくは我慢しましたけどね」。広島・長崎への原爆投下から30年という1975年が近づいていた。「その時には、『もう我慢できない。これではいけない。“I have to break the silence”』それが私のモットーになったんです」。握りこぶしを作り、声に力がこもった。

 アメリカ留学の時は偶然にも水爆実験という背景が後押しして被爆者として語ることをある意味強いられた。しかし今回は自ら荒波に漕ぎ出していった。

 行動せずにはいられなかった。やると決めたらなるべく多くの人に伝える方法を考える必要がある。「どうやろうか?どうやるべきか?」。これまで色々な場面で頼まれれば話はしていたが、もっと効果的な方法はないか?思いついたのが広島・長崎の写真展だ。「視覚に訴える」必要があるとの思いに至った。

 思いついたら即行動。「広島や長崎に行って市長さんにこういう事情だからこうやりたいと思う、協力してくださいと話をしました」。両市とも写真やビデオの提供に協力的だった。その間にトロントでも準備を始めた。まずは団体を作る、そして色々な人に声を掛ける。例えば、大学の教授とか科学者とか、ビジネス界とか。広島・長崎の市長も協力は惜しまなかった。当時のトロント市デイビッド・クロンビー市長も、さらにカナダ初の女性副総督オンタリオ州ポーリン・マクギボン副総督までも協力を申し出たという。そこには平和活動が違う意味に取られかねないことへの配慮もあった。

 30周年イベントは成功に終わった。多くのトロント市民が8月6日に広島で何が起きたか知ることになった。しかし副産物も生まれた。副産物には良い影響も、そうでないのもあった。

 トロント市でソーシャルワーカーとして教育委員会に関わっていたこともあり、「クラスの生徒たちに話してほしい」と現場の先生から声がかかるようになった。初めはうれしかったが、「先生たちの個人的な配慮によって平和教育をするのではなく、システム全体でこういう活動をしていかなくてはいけない」と考えた。

 「そういう意味では教育委員会というところは組織が大きいだけに動きも鈍いんです」。そこでまた考えた。「教育委員会のトップの人たちを巻き込んでいく」。ミーティングを持ち、「核兵器とは何か、社会的・道徳的な責任はないのか」など専門家を交えて、まずは教育委員会を教育することから始めた。「決定権を持つ人たちに理解してもらうことから始める方がその後の動きが迅速になるから」

 また「学校の中でこの問題をみんなで話し合う環境を作ることも大事」と若い世代に理解してもらうため、「まず生徒たちに広島・長崎の意義についてエッセイを書いてもらいました。リサーチも自分たちでやってもらう」。トロント市の多くの高校で実施した。優秀なエッセイを書いた生徒2人を選び、最終的には「私が引率して広島・長崎を案内してきました」。

 教育者も生徒も巻き込んで平和学習に取り組んだ。そうするとメディアがそれを取り上げた。カナダではCBCが、日本ではNHKがドキュメンタリーを作った。引率した生徒2人も日本で積極的にスピーチした。「非常に活発な流れができました」。2人は日本から帰って来るとトロントでもまた平和の使者としてステージに立った。

 相乗効果で多くのカナダの人に知られることとなった。さらに「当時のブライアン・マルルーニ首相が会いたいと言ってくれて。カナダでも原爆のことをオープンに話せるようになりました。良かったと思います」。

 活動は教育だけにはとどまらない。時は前後するが、原爆投下から30年の前年、1974年5月18日、インドが核実験を行った。世界に衝撃が走った。が、カナダではサーローさんたちがすでに「危惧していたこと」だった。

 インドの核実験は、カナダが供与したCIRUS炉(重水減速型天然ウラン燃料の原子炉。重水はアメリカが供給)の使用済み燃料を利用した。カナダは1963年のカナダ・インド原子力協力協定で、施設は「平和的目的にのみ使用される」との条件で合意し、供与した施設に対する厳格な管理規定はしていなかったという。

 サーローさんは実験が行われる前に軍事利用の危険性を訴えるため、大学の教授に訴えることにした。「太平洋から大西洋まで大学の教授に手紙を書いて、今こういうことが起きている、警告を発する必要があると呼び掛けました」。警告は新聞に全面広告という形で出した。費用は教授たちから寄付を募った。広告には寄付に協力した教授たちの名前を掲載し、「広告が3回掲載できるほど寄付が集まりました」。それだけカナダでも原爆の危険性が知られてきたという証拠でもあった。

 「それからはトロントだけではなく、色々な街で大学の先生たちが中心となって反核の動きが出てきました。それも副産物として良かったと思いますね」。

 しかし良いことばかりではなかった。「うれしいと同時に非常に苦しかったです」。最もつらかったのはプライベートがなくなったこと。「『こういう団体を作りました。これからこういうイベントをします』って一般の人に知らせるでしょ。もちろんメディアも取り上げてくれます。そうするとパーッと拡散される。一度そういう立場になると隠すことができない。もう自分のプライベートなんてないんです。メディアの人たちって色々なことを聞きますからね。『それは言えません』なんて言えいない」。覚悟はしていたが、それが本当に一番苦しかったと振り返る。

 「それを我慢してよくやってきたって思います」。そして舞台はカナダから世界へと移っていった。

続く

サーロー節子さんインタビュー「22歳から被爆者として語る覚悟」(前編)

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