今年も暑い8月6日がやってきた。80年前の8時15分、太陽よりも熱い光と風が広島の人々と町を焼き尽くした。生き残った人たちは「この世の物とは思えない光景」を経験し、被爆者として生きていく運命を負わされた。町は復興したが、人々の心に残った傷は癒えることがない。
今年4月、サーロー節子さんにインタビューする機会を得た。おそらく世界で最も知られた被爆者で、平和活動家だ。広島女学院時代の学徒動員中に13歳で被爆。九死に一生を得たが、多くの学友を亡くした。
多くの被爆者は自分の体験を語りたがらないという。理由はさまざまだ。当時を思い出すことが辛いから、被爆者として知られたくないから、自分だけ生きていることが申し訳ないから。鍵を掛けた記憶の奥の扉を開くことは難しい。
それでも広島・長崎が忘れ去られる危機感と伝えておかなければならないという使命感から話し出す被爆者もいる。ほとんどは何十年も経ってから記憶を継承したいと始める。
サーロー節子さんはどうだったのだろうと思った。インタビューで聞きたかったのは、今や平和活動家として知られる彼女の原点だった。
これまで何百、何千ものインタビューを受けてきたサーローさん、メディアへの対応は「良い思いばかりではなかった」と話した。同じ質問に何度も答えてきたに違いない。それでも、インタビュー中に質問を拒否することも、嫌な顔をすることもなく、常に笑顔で真摯に応じてくれた。そこには自分の声を届けられなかった学友たちの声も代弁して、被爆体験を語り継ぐという強い覚悟があった。
まだ寒さが残る4月初旬、トロント市内で話を聞いた。被爆者として活動を始めたきっかけ、トロントでの活動、核兵器禁止条約への道などに話は及んだ。全3回。
アメリカ留学時代に折れなかった心「被爆者として発言を止めることはできない」
「被爆後みんな苦しい時代を生きてきたんです」と話し始めた。「もうこういうことが絶対に世界の誰にもあってはいけないんだっていう確信を持って生きてきました。学友に起きたこと、そういうことは許されない」。静かな口調に強い意志がにじむ。
広島は被爆して「平和主義」の町となった。その中で育ち、平和活動を起こすという「土台は(自分の中に)できていたと思うんです」。
しかし本当のきっかけになったのはアメリカ留学時代の経験だった。広島女学院大学を卒業して1954年にアメリカの大学に留学することになった。
日本は1952年のサンフランシスコ講和条約の発効で、国際舞台へ復帰したばかりだった。女性の留学など一般的ではない時代。それでも留学を決意したのは、被爆した街で必死に生きる子どもたちを助ける大人や牧師の姿だった。
「戦争が終わって学童疎開から被爆した広島に帰ってきても、町がない、親がいない、身内もいないという子どもたちがたくさんいました」。生きるためには犯罪のようなことをする原爆孤児がいる、「社会問題がいっぱいでした」。そんな子どもたちに手を差し伸べていたのは良識ある大人たち。「私の教会の牧師先生もその先頭に立っていました」。牧師たるもの次の日曜日の説教の準備をするのが仕事だと非難する人もいたが、「先生は『いやいや愛の行動がなくて、それはクリスチャンとは言わない』と言って」。まだ10代だった節子さんに「大人の生き方」を態度で示していたという。「私もあの先生のようになりたい、人様のお役に立つサポートのできる人間になりたいっていう願望を持つようになりました」。
そこで当時の広瀬ハマコ学長(1951~70年)に相談した。当時ですでにアメリカのコロンビア大学で博士号を取得していた女性の学長だった。ソーシャルワークに興味があると相談すると、「ソーシャルワークは学問として日本では設置されていない」と教えられた。だからソーシャルワークの学問とトレーニングを受けるにはアメリカに行くしかないと。「『ソーシャルワークを勉強して、帰ってきて、この町で女性運動の先頭に立ってほしい。今は民主主義に社会が変わって女性も男性と一緒に働ける時代になったから、そういうことを手伝ってほしい』って言われて。それで、『私はそういうことをやりたい』と思ってソーシャルワークを選んだんです」。
1954年、広島を発って2週間かかってアメリカに到着した。大学はバージニア州にあった。「その年っていうのは世界にとって大変な年だったんです。特に日本の人はそれを強く感じたと思います」。
アメリカは1954年3月1日、中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で水爆実験を実施した。爆発力は広島へ投下した原爆の約1000倍に相当し、46年から始まった実験は12回目だったが、それまでで最大規模だったという。この時近くでマグロ漁をしていた第五福竜丸の乗組員23人が被曝(ひばく)した。日本に帰港して、この事実が新聞などで報道されると日本中で原水爆への反対運動が起きた。「日本の国民が立ち上がってこれほどの運動を起こすっていうのは初めてのことだったと思う」と振り返る。
こうした背景の中、アメリカに到着。「早速メディアのインタビューを受けました。『あなたは広島から来たと聞いているけれども今起きていることに対してどう思っていますか?』と」。答えは明快だった。「アメリカはこういうことを即座に止めるべきだ。実験をするということは開発を続けるっていうことで、核戦争の準備をすることだ、と。私は広島で見てはならないものを見てきたんだ、とすごく怒って言いました」。大学を出たばかりで言いたいことを自由に言って相手がどう思うかなんか心配しないで意見を言ったと微笑んだ。
取材で言った内容は翌日の新聞に早速掲載された。それから脅迫の手紙が大学に来るようになったという。「『誰があなたに奨学金を出していると思う?』『日本へ帰れ』『アメリカの外交政策を批判するような人はアメリカに来るべきではない』『パールハーバーは誰が始めたんだ』と、とにかく袋叩きになったんです」。
学校で授業に出席することもできず、大学の寮にいることすら危険だと感じ、支援してくれていた大学の先生の家で過ごすことになった。
「そこで一人で色々と考えました。そういう人たちにどう対応すればいいのか、脅しの手紙には命にもかかわるようなことが書かれて、トラウマになるような経験でした」。しばらくは震えながらどうすればいいのか、こういう社会で生きていくことができるのか、自問自答する日々が続いた。
それでも帰国するという選択肢はなかった。「私には道徳的に責任があるんだ」「どういうことがあっても被爆者としての発言を止めるってことはできない」という強い思いが恐怖を乗り越えた。「今考えると自分の肩をたたいて褒めてやりたいと思うんです。22歳の大学を出たばかりの若い子がよく言えたなって。そして、ああいう状況からよく奮い立ったなって。そういうことがきっかけでした」。
アメリカに滞在した1年間では大学内で色々なコミュニティで発言し、証言をした。労働組合や教会や女性の団体などから招待を受けたら全て引き受けた。大学では討論会にも出席した。
13歳で被爆して、10年しかたっていなかった。
続く
(取材 三島直美)
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