大塚圭一郎
マーク・カーニー首相(自由党党首)がカナダ連邦議会下院を解散し、2025年4月28日に総選挙を実施して国民の審判を仰いだ。大きな焦点となったのが「カナダがアメリカの51番目の州になるのを見たい」と暴言を吐き、輸入品への関税引き上げで経済を揺さぶるアメリカのドナルド・トランプ大統領(共和党)におかしいことには明確に「ノー」を突きつけ、良識ある政策で対抗することが問われている。カナダの首都オタワの連邦議会議事堂では22年前、カーニー氏にとって手本となりそうな「とても難しい決断」が下された。
【カナダ連邦議会議事堂】上院と下院の二院制となっているカナダ連邦の立法府。イギリスから独立してカナダ連邦が建国された1867年に発足し、主な建物が1859年から1866年にかけて建設されて議場などに使われた。

1916年2月3日に起きた火災で建物の大部分は消失したものの、図書館は職員が機転を利かせて鉄製の扉を閉めたため守られた。近代ゴシック復興様式の現在の議事堂は1922年に完成し、シンボルとなっている「平和の塔」も1927年に完成。
老朽化に伴って大規模な改修工事が2019年にから進められており、完成は2031年の予定。改修費用は計45億~50億カナダドル(約4600億~5200億円)に達すると見込まれている。改修工事の期間中は、上院は仮設の移転先として旧オタワ・ユニオン駅舎(詳しくは本連載第23回「カナダ首都の名門ホテル、現在地にある理由とは…」参照)の建物、下院は議事堂西側の建物をそれぞれ活用している。

カナダ政治史の“ショーケース”
VIA鉄道カナダのオタワ駅で下車すると、脇にはオタワ・カールストン地域交通公社(OCトランスポ)のトレンブレイ停留場がある。ここから鉄道O―トレインの次世代型路面電車(LRT)のオタワを東西に結ぶ路線「コンフェデレーション線」の東へ向かうタニーズパスチュール行きに乗り込むと、12分でオタワ中心部にあるパーラメント停留場に到着する。

コンフェデレーション線は中心部では地下を通り、五大湖を構成するオンタリオ湖畔のキングストンまでの全長202キロに及ぶ世界遺産のリドー運河をくぐる。
地上に出て目に入るのが、オタワ川沿いにある近代ゴシック復興様式の連邦議会議事堂だ。現在は改修工事のため一部が覆われた建物の下院の議場で2003年3月、当時首相だったジャン・クレティエン氏は「とても難しい決断」の結論を告げた。
その中身について知ることができるカナダ政治史の“ショーケース”が、近くのスパークス通り沿いの建物の1階にある。ここは連邦議会について発信する展示施設「連邦議会―没入型体験」で、映像と光、音を駆使して議場の雰囲気を疑似体験できるようになっているのだ。事前予約が推奨されており、無料で見学できる。見て回るのにかかる時間は約45分間だ。

「ゾウ」の要求を拒否
会場内では議事堂の建物の構造や名所を紹介するとともに、カナダの歴史に残る首相らの名演説、成立してきた法律を知ることができる。カナダ史に残る名演説の一つに数えられるのが、1993~2003年に第26代首相を務めたクレティエン氏が2003年3月に自らの政治生命を懸けて下院で訴えた言葉だ。
2001年9月のアメリカ中枢同時テロに見舞われた当時のアメリカ大統領、ジョージ・ブッシュ(子)氏は、イラクのサダム・フセイン政権が大量破壊兵器の開発を進めていると主張してイラクへの軍事侵攻ありきで動いていた。これに対し、クレティエン氏は「軍事行動が国連安全保障理事会の新たな決議なしで実施されるのならば、カナダは参戦を拒否する」と訴えて「ノー」を突きつけたのだ。
ジャスティン・トルドー前首相の父で、第20代・第22代首相を務めた故ピエール・トルドー氏が「アメリカの隣に暮らすことは、ゾウの隣に寝ているようなものだ。この動物がどんなに友好的で冷静でもほんの少し動いたり、鼻を鳴らしたりしても、隣に寝ていると影響を受けるのだ」と論じたように、カナダはアメリカの一挙手一投足に翻弄される。
ましていわんや戦争をや、である。ピエール・トルドー氏は「どんなに友好的で冷静でも」と控えめな注釈を付けたものの、カナダのある外交官は「アメリカは言うことを聞かないと嫌がらせをする厄介な大国」だと指摘する。クレティエン氏はそのことを百も承知で「ゾウ」、あるいは百獣の王の「ライオン」かもしれない相手に背を向けたのだ。
議場での反応は…
クレティエン氏が打ち明けた「難しい決断」に対し、議場からははっきりとした意思表示が示された。なんと政権与党の自由党の議員にとどまらず、新民主党などの野党議員も立ち上がって拍手するスタンディング・オベーションでたたえたのだ。

クレティエン氏が迷った末に下したのが英断であり、スタンディング・オベーションで応えた大勢の議員らの評価も正当だったことは歴史が証明している。
ブッシュ氏はイラクのフセイン政権が大量破壊兵器を保有しているとの誤った分析を信じ込み、大量破壊兵器を使って攻撃されると警戒感を募らせていたとされ、2011年まで続いた泥沼のイラク戦争になだれ込んだ。
フセイン政権崩壊後も混乱に陥ったイラクでは数十万人が犠牲になったとされる。一方、アメリカ兵も4千人を超える死者を出し、出費は2兆アメリカドルを超えた。しかも血眼になって探しても大量破壊兵器は見つからず、ブッシュ氏がイラクを侵攻した大義名分は完全に崩れ落ちた。
現在はトランプ氏にその地位をすっかり取って代わられているが、アメリカの民主党支持者が「わが国が選んでしまった愚かな大統領」と揶揄した時に指すのはブッシュ(子)氏を指すのが相場だった。
退任前の「別れのキス」
大統領職退任を控えていたブッシュ氏は2008年12月にイラクの首都バグダッドを電撃訪問し、記者会見に臨んだ時にアメリカに対する厳しいイラクの世論について身をもって知ることになる。
当時衛星テレビ局の記者だったイラク人男性のムンタゼル・ザイディ氏が「イラク人からの別れのキスを受け取れ、この犬め!」「夫を失った女性、親を失った子どもたちからだ」とアラビア語で罵声を浴びせながら、履いていた左右の靴をブッシュ氏に向かって投げつけたのだ。
アラブ諸国では人に靴を投げつける行為は極めて侮辱的な行為だと見なされており、ザイディ氏は拘束された。これに対し、ザイディ氏の釈放を求めるデモが起きるなど英雄視する向きが広がり、イラク国民の反米感情が全世界に伝えられた。
私の知り合いの米国民は「イラク戦争は、ブッシュ氏が自身に献金と票をもたらした軍需産業を潤わせるために起こした謀略だったのではないか」と疑いの目を向け続けている。
最後に笑うのは
対照的にカナダ国民が犠牲となる事態を防ぎ、今も輝きを失っていないのがクレティエン氏のアメリカに背を向けて参戦を拒否した決断だ。クレティエン氏は2023年10月にカナダの放送局、CTVのインタビューで「とても難しい決断だった」と振り返るとともに、最大の貿易相手国である米国との取引に支障が出ることを恐れた企業から「極めて強い懸念を聞いていた」とも打ち明けた。
クレティエン氏は「謙虚な人柄」(カナダ政府関係者)とされ、後世に語り継がれることは間違いのない自身の「先見の明」についても決して自慢することはなかった。
ただ、当時を述懐した後に見せた笑みは、胸の内に秘めた確信を物語るのに十分だった。自身の決断がカナダおよび国民にとって最善だったことと、もしも逆の選択をしていれば敬意を持ってその日について耳を傾けてもらえる日が訪れていなかったことを。
アメリカの共和党のシンボルは「ゾウ」だが、今日のアメリカはもはやピエール・トルドー氏が唱えた「ゾウ」ではなくなってしまったようだ。知人の元政府職員は「ロナルド・レーガン元大統領らの時代の共和党には一定の良心があった。トランプ氏が率いるようになってから良い伝統が完全にぶちこわされ、独裁者のイカれた命令に振り回される『カルト集団』でしかない」と嘆いていた。
カナダとイギリスの中央銀行の総裁を歴任した「金融界のスーパースター」のカーニー氏にとって、正論が通用しない「カルト集団」とも呼ばれる相手に理不尽な関税交渉などを迫られるのはさぞかし苦痛であろう。難局が続く中でも筋を通し、「最後に笑うのは誰なのか」を自ら示したクレティエン氏のような英断を期待したい。
【筆者より】いつもご愛読いただきましてありがとうございます。本稿で示した視点や見解は筆者個人のものであり、所属する組織や日加トゥデイを代表するものではありません。

共同通信社元ワシントン支局次長で「VIAクラブ日本支部」会員の大塚圭一郎氏が贈る、カナダにまつわる鉄道の魅力を紹介するコラム「カナダ “乗り鉄” の旅」。第1回からすべてのコラムは以下よりご覧いただけます。
「カナダ “乗り鉄” の旅」

大塚圭一郎(おおつか・けいいちろう)
共同通信社経済部次長・「VIAクラブ日本支部」会員
1973年、東京都生まれ。97年に国立東京外国語大学外国語学部フランス語学科を卒業し、社団法人(現一般社団法人)共同通信社に入社。2013~16年にニューヨーク支局特派員、20~24年にワシントン支局次長を歴任し、アメリカに通算10年間住んだ。24年9月から現職。国内外の運輸・旅行・観光分野や国際経済などの記事を多く執筆しており、VIA鉄道カナダの公式愛好家団体「VIAクラブ日本支部」会員として鉄道も積極的に利用しながらカナダ10州を全て訪れた。
優れた鉄道旅行を選ぶ賞「鉄旅(てつたび)オブザイヤー」(http://www.tetsutabi-award.net/)の審査員を2013年度から務めている。共同通信と全国の新聞でつくるニュースサイト「47NEWS(よんななニュース)」や「Yahoo!ニュース」などに掲載されている連載『鉄道なにコレ!?』と鉄道コラム「汐留鉄道倶楽部」(https://www.47news.jp/column/railroad_club)を執筆し、「共同通信ポッドキャスト」(https://digital.kyodonews.jp/kyodopodcast/railway.html)に出演。
本コラム「カナダ“乗り鉄”の旅」や、旅行サイト「Risvel(リスヴェル)」のコラム「“鉄分”サプリの旅」(https://www.risvel.com/column_list.php?cnid=22)も連載中。
共著書に『わたしの居場所』(現代人文社)、『平成をあるく』(柘植書房新社)などがある。東京外大の同窓会、一般社団法人東京外語会(https://www.gaigokai.or.jp/)の広報委員で元理事。