秋桜 ~投稿千景~

エドサトウ

 穏やかな秋の日、家の中に居れば半袖は、少々寒い気がするが、二階の僕の部屋には窓から秋の陽が差し込み、うたた寝をするには気持ちの良い秋びよりに、裏庭のデッキの椅子に座り、コーヒーをすする。秋の空は、あくまでも青く、雲一つない。

 バンクーバーのエアーポートを飛び立った飛行機が海の上を旋回して、ダウンタウンの上空をかすめて、我が家の斜め上空を西から東に飛んでゆくのを眺めながら、ゆっくりとコーヒーをすする。朝早くに公園を歩いた時には半袖は寒かったけれど、午後の緩やかな風は、少し暖かく感じられて気持ちが良い。

 庭の真ん中にある5フイートぐらいの桂の木が薄い緑から黄色く変化してゆく時に、葉の緑色が薄紫に見える様子は、また、興味深いものである。その周りにある梨の木もぶどうの木もシャクナゲも深い緑で、まだ、晩夏という面持ちである。

 秋は静かに穏やかに、美し光線(ひかり)と共にやってくるような気がする。部屋でラジオのクラッシック音楽を聴きながら。日本のお土産にいただいた雑誌を読んでいた3時のコーヒータイムの話である。

 月刊雑誌の中に老人の話があり、老人がいかに美しく老いるかを思うのである。ボーブオワールが言った「老人が醜いのは犯罪的である」という言葉を思い返している。年金暮らしの僕は外出の用事がないときは、築百年以上の古い我が家の補修をしたり、ペンキ塗りをしたり、庭の手入れをしたりで、それなりに忙しい日々である。冬に脊椎管狭窄症の手術をして不自由であった手足がかなり動かせるようになり、家のことや料理が出来るようになったことはラッキーであったと思う今日この頃である。

  秋晴れに 秋茄子一つ 嬉しきかな

子どものこぶしくらいになった秋なす。Photo by Ed Sato
子どものこぶしくらいになった秋なす。Photo by Ed Sato

 僕の家は木が多く、夏は日当たりが悪くなり野菜が育たないので、斜め裏のお宅の空いているところを少しばかり場所をお借りして、僕の野菜をそこへ移植させていただいたのは8月のこと。ようやく日当たりが良くなったのか、なすやズキニが成長しだし、秋なすが子供のこぶしぐらいになったのである。

 10月も半ばを過ぎると霜が降りる事もあるので、畑に杭を打ち込み、小さなビニールハウスようにした。これで10月の終わりくらいまでダイジョブかもしれないが、気温が下がってくるので多くの収穫は期待できないが、畑仕事は来年の楽しみである。

 年金暮らしになったらダウンタウンに近い我が家から、郊外に広い土地に家を買い替えての野菜作りは僕の夢であったけれど、いましばらくは引っ越しをしなくても済むようである。

 秋は山口百恵の『秋桜』の歌がよく似合う。歌にある歳老いた母ではなく、僕は、孫たちが呼ぶ「Ojiisan!」になってきたようである。