運のいい奴 6 ~投稿千景~

エドサトウ

 すっかり落葉樹の葉が落ちて枝のみとなった殺風景な寒々とした白い霜の朝をキチンから眺めれば、「ああ、今年も無事に過ぎてゆくという安堵感と異国の空の下で晩年の人生が平凡に過ぎてゆく」という安心感がある。

 「優れた人物と人物とそうでない人物の差は紙一重であると言ってよい。例えば、私たちが良く知っている英雄や偉人たち、彼らの行動や思想の軌跡をたどると、そのスケールの大きさや水準の高さに凡人(平凡なもの)は圧倒されてしまう。だが、世界の歴史を書き変えるような偉大な歴史を残した彼らが毎日の生活の中で大きな仕事をやっていたかいうと、実際はそうでもない」

 彼らに共通しているのは、日常の雑事を片付ける名人であったという。英雄ナポレオンは大砲の名射であったが、彼は日常の雑事を片付ける名人であったという。その中でいろいろ考えていく能力が優れていたからだという。

 豊臣秀吉にしても、下積みの時代から自分に与えられた範囲の中で仕事に取り組む姿勢が違っていた。寒い冬の朝には主君の草履をふところで温めたり、小さな思いやりがあった。人を使うためには、自分が人に使われやすい人間になることだと、『気くばりのすすめ』の著者鈴木健二氏は言っている。

 また、その著作の中で、徳川家康も雑事の名人であるが、次のように紹介している。「大砲と言えば、あの徳川家康も、はるかかなたにあった自分の野望のために約十年間かかって、秘かに砲術の研究をしている。秀吉に臣従した家康は、難攻不落の大阪城を攻略するには大砲の技術が必要と考えた。当時の城攻めの戦では、どのくらい早く天守閣に火の手を上げさせるかで、勝敗が決まった。(中略)その最後の決定的な瞬間のために家康は大砲の戦術をコツコツと学んでいたのである」とあるのは、一種の雑事なのであろう。

 これをもう少し僕の考えで言えば、当時(1600年頃)ヨーロッパでは火縄銃よりも城を攻めるための大砲の方が重要視されていたという説があり、火縄銃による集団戦術は無かったようである。むしろ、火縄銃による集団戦術を実践したのは、日本の織田信長の方が早かったようである。

 1600年にウイリアム・アダムス達の西洋の帆船ガリレオ船が大分県の小島に流れつき、それに目を付けたのが徳川家康である。彼はウイリアムから数学とか天文学などを教わった言われるが、もっと想像をたくましくすれば、ウイリアムから西洋における大砲による城攻めの話を聞いていたのではないかと思われる。

紀元前3100年から4000年頃のエジプトの船。Photo courtesy of Edo Sato
紀元前3100年から4000年頃のエジプトの船。Photo courtesy of Edo Sato

 後に、ウイリアムが乗っていたガリレオ船を江戸にえい航すると、その船にあった大砲や火縄銃などをすべて陸に上げさせている。案外、大阪城の攻撃にはこれらの大砲も使われたのではと想像できる。それとは別に家康は火縄銃の大型化した大筒の火縄銃を滋賀あたりで作らせている話もある。家康が運の良かったのは、青い目の西洋人ウイリアム・アダムスと、この時期に遭遇していたということかもしれない。

 もし、彼との出会いが無ければ関ヶ原合戦も大阪城の戦いも勝てなかったかもしれない。一人の西洋人との出会いが家康の人生を大きく変えたのではと思うのは小生の私見である。この大砲が無ければ、六文銭の旗印の真田軍団を率いる真田幸村に負けていたかもしれない。そうなれば、別の運命、つまり別の歴史があったのかもしれない。運命における人と人の出会いは面白く興味深いものである。ウイリアムもその後、旗本に取り立てられて青い目の侍となったのである。

 今回、小生が出演した『Syogun(将軍)』は、いかなるストーリーか興味深いものである。小生も電子版の台本は貰ってはいるが、まだ読んではいない。台本を読むと機密保持が難しいかもしれないから、自戒してことである。

 そういう話を、今回の歴史を担当している女優のKさんと撮影の合間の休憩所で話をしていたら、彼女が「そういう(大砲使った)ことがあったの。あなたまだ台本を読んでいないの?」と言われて、恐縮して「いやいや、機密保持のために台本は読んでいません」とは言えませんでした。

 新しい年の夏過ぎには映画は出来上がる様子、はたしていかなるストーリーになるか楽しみにしましょう。コロナ感染症の時代に映画の撮影も大変ですが、いい年になることを祈りたいものです。