151 番外編その2

「もし、母が生きていたら」

ガーリック康子

 ただいま〜、と実家の玄関を開けると、何かおかしいのです。三和土(たたき)を上がり、仏壇にお参りするために母の部屋に入り、呆然としました。敷かれている布団はどう見ても万年床。読みかけの新聞や雑誌、縫いかけの洋服や、ゴミ箱から溢れるゴミ。 廊下のスペースには、いろいろな物が雑然と積み上げられています。用を足しにお手洗いに入ると、明らかにしばらく掃除をしていない様子です。

 母はいつも通り、夕飯の支度をしてくれていましたが、やはり何かがしっくりきません。料理の内容もさるとことながら、台所が、今まで見たことのないような状態なのです。流しには、どこから手をつけていいかわからないほど洗い物がたまり、ゴミ出しもしていないようです。やかんや鍋には焦がした跡があります。翌日から家中の掃除や片付けを始めると、さらにたくさんの変化に驚かされることになります。そして、私が違和感を感じた大小のいろいろな変化は、後に認知症の診断に繋がるきっかけになるのです。

 遡れば、もう10年前。東北地方太平洋沖地震の影響で、関東地方でも公共交通手段が全面ストップ。立ち往生した帰宅難民が溢れたため、公共施設や大学などが、一時避難所としその門戸を開放しました。都内のJR駅構内で足止めを食った母は、たまたま、通っていた習い事から帰る途中でした。タクシーがなかなか拾えず、かと言って、杖を必要とする母が東京近郊の自宅まで歩いて帰るわけにもいかず、都内の大学の講堂で一夜を明かしました。その間、日本の家族は、母と全く連絡が取れませんでした。同じように大学に避難していた方の携帯電話から自宅に連絡が入った後、母がようやくタクシーで帰宅したのは、翌日の夕方近くでした。

 私は、その年の暮れにかけて、震災後の母の様子を見に行くために、日本への一時帰国を予定していました。ところが、カナダの身内に不幸が続き、やむなく延期することになります。そして、翌年の春に、大きく変わってしまった母の生活の様子と母自身の姿を目の当たりにするのです。

 母は、身の安全を心配したのか、何十年も続けていたその習い事をやめていました。いつも楽しみにしていた展覧会や、少し足を伸ばしてショッピングに行くこともなくなり、外出する機会がめっきり減っていました。生活全般にやる気がなくなったように見受けられました。この後、しばらくして、母は、アルツハイマー型認知症と診断されます。その当時は、前年に予定通り一時帰国ができていれば、何かが変わっていたのかと自問自答することもありました。しかし、時間をかけて進行し、前兆が見られてから本格的な症状が出るまで20年ほどかかると言われているアルツハイマー型認知症の特徴を考えると、もし一年早くても、予後は変わらなかったでしょう。本人にしかわからない症状は、きっとそのずっと前から出ていたはずです。ただ、地震の直後に経験した一連の出来事が、認知症の症状が急に進行する引き金になったのではないかと今でも思っています。

 その後、母が亡くなるまで、年に2回の私の日本への一時帰国は続き、帰る度に母の症状は進んでいきました。ほとんど毎年、何かしらの理由で入院し、一時帰国する度に病院に面会に行っていたような気がします。結局、最後は、内臓の病気があることがわかってから転院した病院の療養病棟で亡くなりました。死亡の知らせを受け、一番早く発てる飛行機で実家に戻ると、見る影もなく痩せ衰え、元気な頃のひと回りもふた回りも小さくなった母が待っていました。

 今、新型コロナウイルス感染症が大流行する中、介護施設や医療施設でのクラスター感染の末、亡くなる高齢者のニュースを耳にする度、もし、母がまだ生きていたらと考えます。母は、認知症と診断されてから、週6日、朝夕の送り迎えのマイクロバスに乗り、デイサービスに通っていました。シルバーカーを使いながらまだひとりで歩けた頃は、散歩がてら、一緒に買い物にも行っていました。入院していた時は、家族と時間を調整し、毎日、面会に行き、面会時間ギリギリまで母と過ごしました。しかし、すべて、病院や介護施設での面会制限がなく、自由に飛行機に乗り、公共交通機関を使い、一時帰国ができてのことです。もちろん、現在のように、到着後14日間の待機宿泊や自己隔離の必要もありません。

 家族が面会することができないまま、入院中の身内が亡くなるかもしれない。想像するだけで不安になります。新型コロナウイルス感染症で亡くなった場合、通常通りの葬儀は行えないでしょう。故人を自宅に連れて帰ることはおそらく無理でしょう。死因が感染症でなくとも、大人数が集まって行う葬儀は、感染リスクを考えると、行わない選択肢を選ぶしかないかもしれません。状況を受け入れるしかないことは頭ではわかりますが、気持ちは複雑です。

 あの頃は、もっと会いに行ければと思っていました。でも今は、その頻度は少なくても、母に会いに行けてよかったと心から思います。そして、予防接種が安全に行き渡り、感染しても軽症ですむ日が来ることを望んで止みません。