はじめに
音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。
11月は、MLBワールド・シリーズ最終戦とともに始まりました。息を呑む白熱した試合は、日付を超えて、延長11回にまで縺れ込みました。私はと言えば、ブルージェイズの野球帽を被り、背番号27番ゲレーロJrの公式ジャージを着込んで、オタワ・ダウンタウンのスポーツバーの大画面を前に同僚達と精一杯応援しました。優勝にあとちょっとというところで、非常に残念ながら、ワールド・チャンピオンを逃しました。試合後に帰宅する際の体感温度は氷点下でした。
そして、今(11月9日午後5時)、この原稿をオタワ空港で書き始めました。G7外相会合の開催されるナイアガラ・オン・ザ・レイク出張に向かう途上なのですが、今季初の積雪で、航空便が大幅に遅れています。その時間を活用している訳です。
正に、冬到来です。日没時間も早く、夜がどんどん長くなっていきます。そんな冬の寒い夜には、トロンボーンが良いです。時に、過剰な程に熱量を発散するラテンのリズムに乗った温かい音色が気分を解してくれます。そこで、今回は、トロンボーン奏者にして作編曲家のオードリー・オチョアです。知名度は、率直に言って、未だ高くありません。しかし、彼女の音楽には、カナダならではの多様な要素が溶け込んでいます。是非、聴いて欲しいアーティストです。
オードリー・オチョアとは誰?
フランシス・フォード・コッポラ監督の傑作「ゴッドファーザー」を持ち出すまでもなく、主人公をより良く理解するためには、その両親を知ることが極めて重要です。そこで、オードリーの父親、ロメオ・オチョアです。ロメオは、フィリピン人のトランペット奏者です。オチョア家は音楽一家でロメオは運と実力を試すべく、フィリピンを出てカナダはアルバータ州エドモントンに移住したのです。多文化主義の下、自由と開放性と多様性を重んじるカナダ社会の求心力と言えるでしょう。とは言うものの、移民であれ誰であれ、音楽で身を立てるのは容易ではありません。単純に演奏が上手いというだけで道が開けるほど甘い世界ではありませんから。ですが、ロメオは音楽で身を立てるに至るのです。地元の誇りエドモントン交響楽団、更に人気絶頂のトミー・バンクスの楽団でも演奏するようになります。このトミー・バンクスという音楽家はエドモントンを拠点に活用したピアニスト・作曲家にしてTV番組ホストでもありました。後年、上院議員にも任命される地元の名士でした。フィリピンからの移民一世ロメオは、正に運と実力を証明したのです。
オードリーは、そんなロメオを父として、エドモントンに生を受けます。母親もアコーディオン奏者です。音楽溢れる家庭環境で育ちます。ですから、オードリーが幼少の頃からピアノを習い始めたのも自然な成り行きと言えるでしょう。
トロンボーンとの出会い
ピアノを通じて音楽の基礎を身につけていったオードリーの運命の瞬間は、中学1年生の時に訪れました。それ以来、「トロンボーンから離れたことは一度たりともない」とエドモントン音楽評議会のインタビューに答えています。ヴァイオリン、チェロやフルート、サクソフォンではなく、トロンボーンが生涯の楽器となったのです。
そこで、トロンボーンの歴史です。ルネッサンス期にトランペットに伸縮可能なスライドを装着した新しい楽器として登場。柔らかく荘厳な音色が特徴で、バロックを経て古典音楽の金管楽器群の一翼を担って来ました。ベートーヴェン「運命」でも活躍しています。そして、20世紀初頭に全く新しい音楽ジャズが誕生。日々進化を遂げていますが、20世紀前半は、率直に言えば、黒人が演奏する奇妙な音楽と一般には受け取られていました。そんな偏見を撃ち破ったジャズ音楽家がトロンボーン奏者にして作曲家・バンドリーダーのグレン・ミラーです。「ムーンライト・セレナーデ」や「イン・ザ・ムード」は、今や古典ですが、その核心は、美しく印象的な旋律を奏でるトロンボーンにあります。20世紀後半になると、トロンボーンはクラッシック、ジャズ、更にはロック、レゲエ等にも導入されるようになります。ビートルズも「Got To Get You Into My Life」や「All You Need Is Love」で効果的に使用しています。
オードリーは、そんなトロンボーンに熱中します。「好きこそ、モノの上手なれ」と云うとおり、彼女は瞬く間に上達します。地元の名門アルバータ大学音楽学部に進学。18歳になると、アルバイトで演奏する機会も増え、結構なお小遣いを稼ぐようになります。ここで特筆すべきは、オードリーの旺盛な音楽的好奇心です。クラシックのみならず、ジャズ、ロック、更にはレゲエ、スカといった音楽をも演奏。そして、自ら作曲も手がけるようになります。当然ながら、職業音楽家への関心も湧いてきます。
しかし、父ロメオは、愛娘が職業音楽家の道に進むことには消極的であったそうです。その道が険しいことを身を持って知っていたが故かもしれません。ですが、フィリピンからトランペットだけ抱いて未知の国へ移民し、実力と運で音楽の道を歩んだ父のDNAを持つオードリーです。自ら、職業音楽家への道を歩み始めます。父ロメオも応援します。
デビュー盤の衝撃
2013年、オードリーはデビュー・アルバム「Trombone & Other Delights」を地元アルバータ州の独立系クロノグラフ・レコードから発表します。表題もジャケットも非常に軽妙で洒脱な装い。ですが、トロンボーンを通じてオードリーの持てる音楽のチカラを全て示そうとする彼女の覚悟を感じさせます。
全8曲、45分に及ぶ音盤は、正に音楽の楽園です。ここには、ジャズをベースにしつつも、ロックやポップやラテンの深く豊かな芳香があります。全て、オードリーの作曲です。録音はエドモントンで、地元ミュージシャンの協力を得て完成させました。カナダの音楽業界をみれば、その中心はトロントです。カナダ最大にして北米3位の大都市で経済・学術・文化の活力に満ち多様性に溢れています。次いで、モントリオール、バンクーバーでしょう。エドモントンは地方都市に過ぎません。オードリーのこのデビュー盤は、言ってしまえば、音楽的辺境の地の無名の女性トロンボーン奏者のマイナーなレコード会社からリリースされた一枚に過ぎませんでした。しかし、音楽の本質は、何処で制作されたか、誰の作品かではなく、内容です。優れた音楽であるか否かに尽きます。そして、カナダの聴衆は、肩書や外見ではなく、音楽を愛でる耳を持っています。このデビュー盤は、カナダのジャズ・チャートの首位に立ちました。快挙です。
ここで一つトリビアです。オードリーのこのデビュー盤は、その表題といいジャケットデザインといい、ハーブ・アルパートの「Whipped Cream & Other Delights」と瓜二つです。深夜放送オールナイト・ニッポンの主題歌「Bittersweet Samba」も収録したこの音盤は、1965年11月にはビルボード誌チャート首位となった名盤です。オードリーは、この音盤にインスピレーションを得て、その成功にあやかったのでしょう。是非、2枚のジャケットを見比べてみて下さいませ。


離陸
デビュー盤の成功で、オードリーの一般的な知名度は、カナダ国内で上がります。と同時に、ミュージシャンの間での評判は急上昇です。晩年のマイルス・デイビスを支えた現代ジャズの巨匠であるマーカス・ミラーを筆頭に、テンプテーションズ、クリス・ポッター等と共演しています。職業音楽家として、作曲・編曲・録音、更には他のアーティストとの共演に忙殺される日々です。
一方、上述のとおりアルバータ大学音楽学部で学ぶ中、オードリーは音楽教育の重要性を実感。同時に、人気商売である音楽家稼業とは別に生活の基盤を確保する大切さも痛感します。地に足のついた考え方は、父ロメオ譲りとも言えるでしょう。オードリーは、地元の小学校で音楽教師を勤めつつ、音楽活動を本格化させます。

2017年には、第2弾アルバム「Afterthought」を発表。前作とは、全く赴きを異にするトリオ・アルバム。要するに、トロンボーンとベースと打楽器の3つだけです。ここで注目すべきは、ピアノとかギターという和音を奏でる楽器が無いということです。それ故に、より広い音楽的スペースが生まれ、トロンボーンが縦横無尽に走り舞うことが出来る訳です。ジャズの核心である即興演奏の実力が露わになります。非常に野心的な試みと言えるでしょう。この音盤を聴いて思い出したのがソニー・ロリンズ1957年の異色作「Way Out West」です。サキソフォン・ベース・ドラムの三重奏が生み出す独特の音空間には、歌心に満ちたロリンズ節が溢れています。
飛翔

2020年、第3弾「Frankenhorn」が発表されました。表題とジャケットデザインが示すとおり、オードリー版のフランケンシュタインです。ヴィジュアル的にはちょっと気味悪いですが、異質な要素を繋ぎ合わせて新しい次元に踏み出そうという意気込みを感じます。
聴けば、1枚の音盤の中に4つの異なる音楽が脈打っています。①ピアノ・ベース・ドラムという定番のリズム・セクションに乗って奏でるジャズ、②パーカッションを強調したラテン、③ピアノと弦楽器を背景にしたクラシック風、④ヒップホップ的なエレクトリカ・DJ、です。その上で、主役であるオードリーのトロンボーンが素晴らしい音色で歌っています。

そして、2023年には最新盤「The Head of A Mouse」をリリース。まず、この表題に興味が湧きます。実は、父ロメオが娘オードリーに授けた格言で、フランスの諺「ライオンの尻尾になるより、ネズミの頭がまし」に由来するものです。中国の歴史書『史記』蘇秦伝にある「鶏口となるも牛後となるなかれ」と同趣旨です。強大な組織や集団の中で上の者に従って末端にいるよりも、たとえ小さな組織であってもそのトップになった方が良いとの考え方です。要するに、有名音楽家のバンド・メンバーになるよりも、自分自身でバンドを率いるべし、ということです。自分が心底演りたい音楽を心の赴くままに存分に演るということに尽きるのです。
「The Head of A Mouse」は表題どおり、オードリーが持つ多様で多彩な音楽性が表れています。前作が更に拡張され、全13曲、1時間7分の大作です。ここには、トロンボーンによる現代ジャズの万華鏡の趣きがあります。
全てオードリーの作編曲ですが、ちょうど新型コロナ感染爆発の時期に書き溜めたものです。各楽曲には、家族・喪失・絆といった思いが込められていると言われています。
結語
オードリー・オチョアは、フィリピン系カナダ人でカナダの今を体現している音楽家だと思います。彼女は移民社会の成熟を想起させるからです。と言うのも、近年のカナダへの移民の出身国トップ3は、インド、フィリピン、中国(香港・台湾を含む)です。フィリピン系カナダ人の活躍は様々な分野に及んでいて、連邦下院議員も誕生しています。
オードリーは、音楽家として一作毎に進化を遂げています。デビュー盤はハーブ・アルパート的なポップ感、第2作はソニー・ロリンズを彷彿させるビバップ感、第3作は多様性を示しました。そして「The Head of A Mouse」は、フィリピン系カナダ人音楽家として初めてジュノー賞候補となった作品です。
オードリーの次なる音楽的冒険が何処に向かうのか興味が尽きません。
(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身





















