「サム・ロバーツ・バンド」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第35回

はじめに

 日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。

 5月は緑の季節です。ここオタワでは、冬が終わり春が来ると加速度的に気温が上がります。早春は瞬く間に春爛漫になります。すると、時を置かずに初夏の雰囲気が街に満ちて来ます。天気の良い週末は、郊外の保養地域に自転車とランナーと散策する人々の幸福な笑顔が溢れています。素晴らしい季節です。

 そんな5月に聴くのに相応しいのは、旋律とハーモニーが自然なサウンドの中に息づくカナダらしい音楽です。敢えて言葉にすれば、フォークとロックとR&Bとが融合し、適度に尖ったリズムで、等身大の自分を飾らず描く歌詞なら、最高です。そこで、今月は、サム・ロバーツ・バンドを取り上げたいと思います。

 カナダのオルタナ系ロックの代表格です。日本を含むアジア・ツアーも行っています。率直に言うと日本では大成功という訳ではなかったようですが、カナダではジュノー賞の常連です。音楽性でも商業面でも極めて高い評価を得ています。

 私事ですが、私は毎朝ノイズキャンセリングのヘッドホンで音楽を聴きながらウォーキングを楽しんでいますが、最近の愛聴盤の一つが昨年リリースされた『ベン・ブランクの冒険』です。奇妙なジャケット・デザインなですが、ちょっとハスキーな彼の声が切れのいいリズムとメロディーに乗って、多彩に響く最高のウォーキング・パートナーです。

 サム・ロバーツ・バンドは、名前が示すとおり、作詞作曲しリードボーカルを担当するサム・ロバーツ率いる彼のバンドです。実は、最近知ったことなのですが、サム・ロバーツは我が日本大使館の或る館員の親族なのです。ディズニーの人気者ミッキーマウスが、It’s a small world と歌っているとおり、この世界は、色んなところで知らず知らずに繋がっているものなのですね。

 それでは、早速、サム・ロバーツについてです。

モントリオールの二刀流

 サム・ロバーツは1974年10月2日ケベック州のモントリオール島のウェストマウント市で誕生しました。両親は、南アフリカからの移民です。何と、到着した3週間後に彼が生まれたのでした。当時アパルトヘイトに嫌気がさして南アフリカを出国し、英国スイス勤務した後、母親は身重の臨月で、大西洋を渡りカナダに入国したのでた。この状況からして、極めてカナダ的です。時は、ピエール・トルドー政権が推進する多文化主義の真っ最中です。モントリオール・ガゼット紙のインタビューに答えて、サムは「僕の最初の記憶は、ウェストマウントの古いパン屋“ポム・ベーカリー”の焼きたてのパンの香りです」と答えています。牧歌的な素敵な幼少期の思い出ですね。

 サムは、すくすく育ち、4歳でヴァイオリンを習い始めます。幼少期から楽才を示し音楽に情熱を注ぎます。この時のヴァイオリン教師セヴァディジアン氏とはその後も親交が続き、サムの娘もヴァイオリンを教わっているそうです。モントリオール流の地元コミュニティーの固い絆です。

 また、サムは11歳でギターを弾くようになります。ヴァイオリンで鍛えた指使いと音感は、ギターにも遺憾なく活かされ、瞬く間に上達します。13歳の時にエレキ・ギターと出会い、友人とバンドを組みます。一方、頭脳明晰で、モントリオールの名門ロヨラ高校に進学し、マギル大学で英文学を専攻します。因みに、このロヨラ高校・マギル大学のコースは、米国カーター政権の国家安全保障補佐官を務めたポーランド移民のブレジンスキー氏と同じです。かつて、日本のロック批評の草分け、渋谷陽一が「ロックは知性の革命だ」と喝破したのを思い出します。

 サム・ロバーツはモントリオールの音楽と学業の二刀流でした。サムは、高校生にして、“ウィリアム”と名乗るバンドを結成。マギルに通うかたわらバンド活動を続けていました。1996年には、地元の独立系レーベルから『ピラニア』と題するEP盤をリリースしました。1998年マギル大学を卒業すると、音楽に専心します。

ロサンゼルス〜苦い夢

 サムは、卒業を期に“ウィリアム”を“ノーススター”と改名します。そして、バンドメンバーと共に、モントリオールを出て世界のエンタメの中心地ロサンゼルスに拠点を移します。ロサンゼルスでは、バンド名を冠した『ノーススター』と題するEP盤を自主制作し、勝負をかけます。北国カナダのケベックから現れた新星には、自信もあれば野望もあったに違いありません。ダウンタウンのクラブ等での演奏活動も本格化させます。しかしながら、其処は、世界中から一騎当千の我こそは異才・鬼才・天才と信じるミュージシャンが集まり覇を競う街です。

 率直に言えば、ロサンゼルス滞在は苦いものに終わったようです。結局、翌1999年には、“ノーススター”は解散してしまいます。

 苦い夢に終わったロサンゼルス時代を振り返り敢えて総括すれば、理由は2つです。

 まず、サム・ロバーツ自身が未だ発展途上であったという点です。実は、このコラムを書くために、ノーススター時代の「Diagnosis:Evil」という曲を聴きました。イントロの刺激的なギター・カッティングとキャッチーな主旋律は可能性を感じさせますが、何処かで聞いたことのあるようなサウンドで彼の個性が際立つとまでは言えません。圧倒的な才能が開花するにはもう少し時間が必要だったのです。

 もう一つは、ロサンゼルスでは、音楽は芸術ではなくエンタメ産業です。売れる見込みがなければ、セカンド・チャンスはありません。将来性だけで生き残るのは容易ではない街です。厳しい現実です。サム・ロバーツが、才能の原石を磨く上で、ロサンゼルスは相性の良い街ではなかったということでしょう。

覚醒

 1999年、サム・ロバーツは、モントリオールに戻ります。凱旋ではありません。傷心の帰郷と言うべきでしょう。しかし、音楽に限らず誰の人生においても、試練は時として人間を鍛えます。“ウィリアム”から“ノーススター”とバンドを組んできた同志とも袂を分ち、一人の音楽家として改めて音楽に向き合います。

 サムは、自作曲12曲を自家録音します。実は、サムは、マルチ・インストロメンタリストで、ヴァイオリン、ギター、ベース、キーボード等を弾けるのです。その時のサム・ロバーツの現状を赤裸々に示す、『ブラザー・ダウン』と題するデモテープが出来上がりました。後にジュノー賞を受賞することになる名曲「ブラザー・ダウン」の最初期のヴァージョンを含んでいます。

 そして、このデモテープが運命の扉を開きます。

成功

 2001年、プロデューサー兼パーカッショニストのジョーダン・ザドロズニーが、このデモテープを評価し、全12曲の中から6曲を厳選して再録音することになります。ドラムはザドロズニーが叩きましたが、その他の楽器は全てサムが弾き、リードボーカルもハーモニーもサム自身の多重録音です。

 そして、この録音は、翌2002年7月にトロント拠点の独立系「メイプルミュージックレコード社」からEP盤『インヒューマン・コンディション』としてリリースされます。すると、リリースから9週間で、カナダのアルバム・チャート2位まで駆け上がります。デビュー・シングル「ブラザー・ダウン」は、カナダのオンエア・チャートで3位にインします。全く無名のシンガー・ソングライターの独立系の音盤が瞬く間にカナダ全国で大ヒットしたのです。快挙と言って良いでしょう。

 「ブラザー・ダウン」は、ファンキーなリズムに乗って、人生の選択や社会の不条理を歌っています。現代的なサウンドと親しみやすい旋律と極めて内省的な歌詞が絶妙にマッチ。最大の武器はサムの声です。聴く者の胸を突きます。

 すると、世界最大レコード会社「ユニバーサル」がサム・ロバーツとの契約をオファーするのです。既にカナダのアルバム・チャートを席巻している音盤『インヒューマン・コンディション』に収録されている6曲を録音し直すと共に、追加で8曲を録音します。勿論、全てサム・ロバーツの作詞作曲で、大半の楽器を彼が弾いています。

 2003年6月、メジャー・デビュー音盤として14曲収録のフル・アルバム『We Were Born in a Flame』がリリースされます。しかも、カナダに加え米国でもです。かつて、夢破れたロサンゼルスの日々は、成功に至る上で通るべくして通った道程であったのでしょう。

飛躍

 このメジャー・デビュー音盤は大成功を収めます。2004年4月4日にアルバータ州エドモントンで開催されたジュノー賞で、「アルバータ・オブ・ザ・イヤー」、「ロック・アルバム・オブ・ザ・イヤー」、「アーティスト・オブ・ザ・イヤー」を受賞します。

 正に2004年はサム・ロバーツにとって飛躍の年です。本コラム第22回で紹介した「トラジカリー・ヒップ」のカナダ全国ツアーに同行し、オープニング・アクトを務めました。このツアーには、苦楽を共にした“ノーススター”のバンドメンバーに再び声をかけて万全の体制で臨みました。この経験は、ライブバンドとしての力量に一層磨きをかけました。この後、サム・ロバーツは米国ツアーも敢行しています。

 翌2005年には、「LIVE8」に参加しています。若干の解説をします。遡れば、1985年にアフリカ難民救済を目的に行われた20世紀最大のチャリティーコンサートであった「LIVE AIDE」が行われことを音楽ファンなら憶えてらっしゃるでしょう。クィーンを題材にした映画「ボヘミアン・ラプソディー」のハイライトにもなったコンサートです。LIVE8は、このLIVE AIDE の20周年を期に、2005年7月のG8首脳会議に向けて、貧困に喘ぐアフリカ諸国への支援増大や債務救済を主張して行われたコンサートです。東京、ロンドン、フィラデルフィア等G8各国の主要都市で開催され、カナダでは7月2日(土)午後4時から日付が変わった3日(日)の早朝まで、トロント郊外のバリー公園特設ステージで行われました。サム・ロバーツはこの舞台に立ったのです。LIVE8トロントには、趣旨に賛同したニール・ヤング、セリーヌ・ディオン、ブライアン・アダムス、更にはディープ・パープル等々のスーパースターが参加。サムは、名実ともにスターの仲間入りを果たした訳です。

 その後は、コンスタントにアルバムを発表。カナダを代表するロック・アーティストとしての地歩を築いて行きます。2006年には第2弾『Chemical City』、2008年には第3弾『Love at the End of the World 』をリリースします。特に、第3弾音盤は、アルバム・チャート初登場で首位。ジュノー賞も獲得しています。

 2011年以降は、「サム・ロバーツ・バンド」名義で音盤を発表しています。バンドの核となるドラム、ベース、キーボードは“ノーススター”時代から不変です。引き締まったバンド・サウンドはメンバー間の絆の深さを感じさせます。

結語

 サム・ロバーツの音楽は、彼が若き日々に聴いたボブ・ディランやビートルズやローリングストーンズの影響を陰に陽に受けています。考えてみれば、彼らの影響を受けていないバンドは皆無でしょうけれど。時に、カナダのブルース・スプリングスティーンと言われることもあるようです。しかし、サム・ロバーツには、カナダ的な余りにカナダ的な要素が色濃く現れています。メジャー・デビュー盤収録の「カナディアン・ドリーム」など良い例ですが、多文化主義のカナダの理想と現実が滲んでいます。自然との共生や旅も主要なテーマですが、日本の27倍の国土故に生まれたサウンドと言えます。

 サム・ロバーツは、既に、デビューから20年余です。彼のキャリアを一望できるベスト盤『Frequencies』がリリースしたばかりです。今年は、50歳の知命の年です。コマーシャリズムに飲み込まれることなく、サムにしか辿れない音楽的冒険の旅路を行き、これからも極上の音盤を出してくれると期待しています。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身