「エド・ビッカート」音楽の楽園〜もう一つのカナダ 第44回

はじめに

 音楽ファンの皆さま、日加関係を応援頂いている皆さま、こんにちは。

 前回は、「新年明けましておめでとうございます」と御挨拶させて頂きました。が、瞬く間に時間が経ち、既に2月も後半です。私事で恐縮ですが、趣味のウォーキングを通じて、車窓からでは分からないオタワの街の四季折々の素晴らしさを実感しています。春は新緑、夏は青空、秋は紅葉。そして、冬は雪景色の純白が非常に印象的です。

 オタワの雪を毎日見ていますと、村上春樹の最新長編「街とその不確かな壁」を思い出しました。第2部では、主人公の「僕」は福島県の山間部にあるZ**町の図書館長になり、町のコーヒーショップを頻繁に訪れるのですが、そこでデイブ・ブルーベック四重奏団の演奏が流れている場面があります。そして、この四重奏団のサウンドの核心がポール・デズモンドのアルト・サキソフォンです。村上春樹は若い頃ジャズ喫茶を経営していたことがあり、巨大なジャズ愛を持っていて、デズモンドのアルトを穏やかで静かな空間を演出する上品なジャズとして描写しています。

 さて、前置きが長くなってしまいましたが、ここからが「音楽の楽園」です。何故、米国人ポール・デズモンドについて記したかと言えば、彼の代表作で自らの名を冠した1975年の名盤「ポール・デズモンド」はカナダの誇る燻銀ギタリスト、エド・ビッカート無しには成立し得なかったからです。実際に、デズモンドはライナーノートで「この音盤はエドのアルバムだと思っている。本当に」と述べています。知名度で言えば、オスカー・ピーターソンやダイアナ・クラールに遠く及ばないものの、エド・ビッカートは、カナダのジャズ史において特別な地位を占める音楽家です。

 という訳で、今回は、エド・ビッカートです。

カナダ的な極めてカナダ的な

 エド・ビッカートの来歴を辿ると、彼は、実にカナダ的な家族から登場して来たことが分かります。旧約聖書も預言者の来歴を詳細に描くことから始まっていますが、それに習い、ここでもエド・ビッカートの両親から始めたいと思います。少々細かい事を書きますが、どうぞお付き合い願います。

 まず、エドの父親、ハリー・ビッカートについてです。

 ハリーは、旧ソ連のウクライナ共和国モロスチナ・コロニー出身のメノナイトでした。メノナイトとはキリスト教再洗礼派(バプティスト)の一派で、16世紀の宗教改革期にドイツ・オランダで生まれ、非暴力にして質素な生活を旨とする信仰共同体です。17〜18世紀、多くのメノナイトがロシアに集団移住しました。更に、時代が下り、19世紀後半、ロシア在住のメノナイトは北米へ移住。20世紀に入り、特にロシア革命後は、カナダへの集団移住が増加します。

 と言うのも、1920年代のカナダは、未だ大英帝国の自治領でしたが、第一次世界大戦で多大な犠牲を払いつつも主権国家へと力強く歩み始めます。平原州マニトバは極寒の地でしたが、農業技術の飛躍的発展と鉄道網の整備で、発展著しい地でした。カナダ政府も国家建設の観点から積極的に移民を受け入れました。そして、メノナイトを含めウクライナから多くの移民が新天地マニトバにやって来たのです。特に、州都ウィニペグから南へ120km、米国ノースダコタ州との国境の街スタンリーには農業を中心としたメノナイトの自治地区が生まれていました。ハリー・ビッカートもそんなウクライナ系移民の一人でした。但し、一つだけ他のウクライナ移民と異なっていたのは、ハリーがヴァイオリンの名手だということでした。メノナイト共同体の中でヴァイオリン奏者として活躍したと云います。

 そんな中、ハリーは、スタンリーの隣街プラム・クーリー出身のヘレン・ディック嬢と出会います。彼女は、オランダ系のメノナイトで、ピアノの名手でした。二人は恋に落ち、結ばれますが、それは極めて自然な成り行きであったのでしょう。そして、1932年11月、父ハリーと母ヘレンの間に、エドが誕生します。

 子を授かったビッカート家は、程なくしてマニトバ州スタンリーからブリティッシュ・コロンビア(BC)州カナディアン・ロッキー山脈の奥深い街ヴァーノンへと転居します。その地で、ビッカート家は養鶏農場を営むことになるのです。同時に、ヴァイオリンの名手ハリーとピアノの名手ヘレンは、農場経営の傍ら、カントリー・ダンス・バンドを組み、地元で音楽活動を始めます。地元のエド少年は、音楽に溢れた家庭ですくすく育ちます。

ギターとの出会い

 1942年、エド少年10歳は生涯の楽器となるギターと出会います。兄が持っていたギターを手に取ったのが最初だったといいます。父はヴァイオリン、母ピアノなのに、何故、エド少年はギターだったのでしょうか?たまたま兄が持っていたという偶然だったかもしれませんが、その後のエド・ビッカートの成功を知っているので、どうしても運命の出会いと言い切ってしまいたくなります。そこで、ヴァイオリンとピアノとギターという3つの楽器について少々考えてみましょう。全くの私見ですが、ギターは、弦楽器としてのヴァイオリンの特性と和音楽器としてのピアノの特性を併せ持つ唯一の楽器なのです。その意味では、ヴァイオリン奏者の父とピアニストの母の息子がギターで道を拓いたのは必然とすら言えるように思います。

 ヴァイオリンの最大の特徴は、弦を押さえる指と弓を引く指の絶妙な操作と力加減で、ヴィブラートやポルタメント、フラジオレット等々それぞれの奏者に固有の多彩な音色や表情を生み出せることにあります。しかも何処へでも持ち運べます。但し、特殊奏法はありますが、ヴァイオリンは基本的に短音楽器で、それ自体ではハーモニーを奏でることには限界があります。

 一方、ピアノの最大の特徴は、多数の鍵盤を弾くことで、同時に主旋律も対旋律も、和音も重低音も奏でることが出来ますし、リズムを刻むことも可能です。1台のピアノで音楽を完結できるのです。但し、一つ一つの音色は決まっていて、極端な話、猫でも赤ちゃんでも音大生でも著名なピアニストでも、同じ鍵盤を押せば基本的に同じ音が出ます。勿論、楽曲を弾けば、運指の速度、強弱、微妙なタッチの差、更にペダルの使用で個性的にして豊穣な音楽が生まれる訳ですが。そして、ピアノの最大の弱点は、楽器として完璧であることの裏返しで、持ち運び出来ないことにあります。

 そこで、ギターですが、“小さなオーケストラ”と呼ばれるように、6本の弦を制御することで、ピアノのように同時に主旋律も対旋律も和音も重低音も弾けるのです。同時に、ヴァイオリンのように、弦を絶妙に制御することでヴィブラート等の豊かな表情や音色を生み出せます。コード・カッティングではリズム楽器と化します。しかも持ち運びが容易。強力な楽器です。

 エドは、音楽一家のDNAを伝承し、ギター少年になります。これは運命です。

ギター少年の誕生

 ギターを手に取ったエド少年は、瞬く間に上達したそうです。やがて、両親のカントリー・ダンス・バンドに参加するようになります。モーツァルトやベートーヴェンを筆頭に数多のヴァイオリン・ソナタが作られたことに端的に現れているとおり、ヴァイオリンとピアノは良き音楽をつくる上で2つの楽器のコンビネーションとして完璧です。が、そこにギターが加わる意味は何処にあるのでしょうか?リズムの強化です。一層力豊かな音楽を奏でることを可能とするのです。ダンス・バンドの任務は、客を踊らせることにあります。エドの参加は、ビッカート家のダンス・バンドを、踊るという観点でより魅力的な楽団へと押し上げました。

 同時に、エドは、ダンス・バンドを通じて生きた音楽を学びました。客を前に演奏することで、何が客を刺激するのか、頭よりも先に身体が踊り出したくなるような音楽の核を体得するのです。極論を言えば、太古の昔から音楽の核には舞踏がありました。バッハの傑作「フランス組曲」や「イギリス組曲」も基本はダンスのための音楽です。その系譜にあるのが、ブラームス、ガーシュイン、グレン・ミラー、ビートルズ、マイケル・ジャクソンらです。要するに、素晴らしい旋律、ワクワクするハーモニー、そして刺激的なリズムの融合が、客の胸を掻きむしり、踊り出したくなるのです。これこそ、ギター少年エドが両親のダンス・バンドで学んだことのエッセンスです。

 そして、ギター少年は、ジャズの洗練を受けます。20世紀に生まれた新しい音楽、ジャズの核心は自由です。制約はありません。エドは、ハーモニーの面で天性のセンスにますます磨きをかけます。同じ旋律でも、エドが伴奏すれば、魔法にかかったようにお洒落な響きに化けるのです。

 後年、インタヴューで「自分は、生まれながらのサイドマンだ」と語っていますが、その意味するところは、主旋律を際立たせる時に、エドのギターが最も輝くということです。その原点は、両親のダンス・バンドでギターを弾き始めた時にあるのです。

 長じて、18歳になると、地元ヴァーノンのラジオ局の音響技師として職を得ます。が、ギタリストとして、己の腕を試したいと思うのです。が、地元ヴァーノンは余りに小さな街でした。

 20歳になると、カナダの音楽業界の一大中心地トロントへと旅立つのです。自信と不安が交叉するエド青年の心境はどんなだったでしょう。

トロント〜挫折と鍛錬、そして秘宝へ

 世に“井の中の蛙”と言います。カナディアン・ロッキーの田舎ヴァーノンでは最高のギタリストだったエド。しかし、トロントに到着して程なくして、この街の音楽シーンには凄い才能の持ち主が数多いることを知るに至ります。自信喪失だったのかもしれません。自分は未だ準備ができていないと悟ります。2年余にわたり人前ではギターを弾かなかったと言われています。

 一方、大都市トロントで生きていくためには、仕事をしなければなりません。エドは、トロントのラジオ局でサウンド・エンジニアの職を得ます。但し、音楽の道を諦めた訳ではなかったのです。ラジオ局の技師として働く傍ら、仲間内のセッション等で、新しい技法を学び、腕を磨きます。いつの日か、ステージに登りスポットライトを浴びることを夢みていたのでしょう。

 そして、1955年、エドは、トロントの音楽シーンに鮮やかに登場します。サックス奏者ジミー・アマロの楽団のレギュラーとなります。音楽業界では、徐々にエドのギターに注目が集まり始めます。「俺様が、俺様こそが・・」と自己主張の強いジャズの世界にあって、生まれながらのサイドマンとして共演者の演奏を際立たせることに威力を発揮するエド。いよいよ、エド・ビッカートの時代の幕開けです。

 25歳の時、モリス・コフマン楽団のレギュラーに招かれます。コフマンは、カナダが生んだジャズの巨人で、サックス奏者・フルート奏者にして作曲家、バンド・リーダーです。エドが参加して録音した「スゥインギング・シェパード・ブルース」はビルボード誌チャート23位のスマッシュ・ヒットとなります。このヒットは、3つの意味で意義深いです。まず、カナダ発のヒットであること。そして、トップ40に歌のない演奏だけの曲がランクインするのは非常に珍しいのです。その後、ハービー・マンはじめ多くのアーティストにカバーされるようになる時代を画す名曲です。

 この後、エドは、スタジオ・ミュージシャンとして、数多くのアーティストの録音に招かれると同時に、ラジオやテレビの仕事も増えます。ディジー・ガレスピー、ベニー・カーター、バディー・テイト等々、ディスコグラフィーは大変に充実しています。多くのアーティストが、エドと一緒に録音するためにトロントに来るようになります。正に、トロントの秘宝になったのです。

結語

 冒頭に述べた、ポール・デズモンドの音盤へのゲスト参加は、エド・ビッカートのギターの素晴らしさを雄弁に語る演奏です。的確なリズム感、柔らかく美しい音色、旋律を生かす優れたハーモニー。ジャズ・ギターの最高峰と言って良いでしょう。勿論、エドの名前を冠した彼自身のリーダー作「エド・ビッカート」も隠れた名盤ではあります。しかし、率直に言えば、他のアーティストのリーダー作をサポートする時にこそ、エドの魅力が全開するように感じます。稀有な存在です。

 「三つ子の魂、百まで」とも言います。カナディアン・ロッキーの街ヴァーノンで地元のお客さんが踊るのを音楽でサポートした日々。両親のバンドでギターを弾き、客が上機嫌で踊る時に、感じたに違いない混じり気のない喜び。エド・ビッカートを聴くと、幾つになっても彼の奏でるギターにはそんな素朴な喜びが宿っていると感じます。

(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。

音楽の楽園~もう一つのカナダ

山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身