エドサトウ
一万年ぐらい続いたと思われる青森県の三内丸山遺跡は、なぜ忽然とその姿を消したのかと言えば、今から4200年前の気候変動による寒冷化により冬の食料にしていたと思われる栗などのナッツ類が取れなくなり三内丸山遺跡を放棄されたようである。
我が家にも少しばかりのブドウの木があり、2年前までそのブドウで自家製ワインを作っていた。昨年はブドウはなったけれど、少し未熟な感じがしたので10月に入るまでそのままにしておいたら、ブドウの葉の下でほとんどがカビが生えて腐ってしまい、ブドウ酒にはできなかった。今年は、それよりもひどく、小さな黒い乾燥した房になってしまった。温暖化により、2度くらい高い乾燥した夏であったことが原因でないかと想像する。
三内丸山遺跡の場合は寒冷化により2度ぐらい気温が下がったらしい。しかし、なぜ栗などの不作で、あの大きな縄文時代の集落が忽然と姿を消したかを考えれば、クマが人里の三内丸山遺跡に現れて、人間とか食料が狙われて生活ができなくなったのかもしれない。
今年の秋、日本でも山奥のクマの食料不足か、頻繁に人里にクマが現れて、多くの人が亡くなったり、大けがをしたのをみると、縄文時代の三内丸山遺跡でも、きっと同じことがあったのではと想像される。
何故か、三内丸山遺跡と同じころ、シュメール人のメソポタミア文明も忽然と姿を消している。民族が大移動してナイル川の北部に住み、後にピラミッドなどの建設に携わったのではと考えられなくもない。
余談だが、仏教の西方浄土という考えはこの時のものらしく、日の沈む西の方に行けばいい生活ができるというものが死後の世界観になったらしい。
三内丸山遺跡の人々も、西、正確に言えば、南西に下り、クマがいないとされる千葉県あたりへ移住したのかもしれない。
しかし、北海道にいるアイヌの人たちは、僕の想像からすれば、太古の時代にマンモスを追って、大陸から南下してきた狩猟民族の人々なので、クマをとらえてマンモスのように冬の食料として、秋になれば積極的に狩猟を行ったりサーモンの捕獲をしたのであろう。クマの肉は冬の食料となり、毛皮は冬の防寒着になったように想像できる。クマはアイヌの人々にとって神聖なものであったのである。
「イヨマンテの夜」という歌があるけど、あれは祝いの歌らしい。父が好きな歌で、戦後のNHK「歌ののど自慢」で歌って、鐘が二つなったらしいという話を母から聞いたことがある。
戦後は、アメリカの食料援助がなければ、日本の多くの国民が餓死したのではという話もある。食料は人の命であるが、今では日本の食料の大半は海外からの輸入で、日本の自給率は半分以下(40%)である。しかし、日本のコメの増産はしない様子、それは人口の減少とか、食生活の変化でお米を食べなくなったからだと言われているが、食料安保の考えからすれば、ある程度コメの増産をして、余ったお米は、米粉にして小麦と混ぜて、新し加工法でパンなどを作れるようにして、食料の不足している国々に援助として送ればよいのではと、日本のニュースを見ながら思うことである。

投稿千景
視点を変えると見え方が変わる。エドサトウさん独特の視点で世界を切り取る連載コラム「投稿千景」。
これまでの当サイトでの「投稿千景」はこちらからご覧いただけます。
https://www.japancanadatoday.ca/category/column/post-ed-sato/





















