はじめに
日加関係を応援頂いている皆さま、音楽ファンの皆さま、こんにちは。
ここオタワは今、最高の季節を迎えています。気温は高い時でも20℃台後半で30℃を超えることは稀。湿度も高くありませんから、木陰に入って風が吹くと心地良い程度に冷んやりします。ほぼ熱帯と化した高温多湿の東京から見れば大変に贅沢な気候です。
その上、連邦議会はカーニー政権が目玉として掲げた所得減税、暫定予算、そして「一つのカナダ経済法案(One Canadian Economy Bill)」を成立させて休会に入っています。6月15日〜17日には、アルバータ州の世界的な避暑地カナナスキスでG7が成功裡に開催されました。
よってもって、首都オタワは7月の声を聴くと、率直に言って、かなり休日モードに入りました。街には音楽が溢れています。ブルース・フェスティバルもジャズ・フェステイバルも大変な盛況でした。オタワの地理的特性は、オンタリオ州とケベック州の接点であること。それ故に、バイタウンと呼ばれた木材交易の小さな村が首都になった訳です。自由と多様性と包摂性こそカナダの個性でありアイデンティティー、オタワで広く聴かれている音楽にもそれらが滲んでいます。
そこで、今月はレ・カウボーイ・フランガン(Les Cowboys Fringants)です。
ケベコワが誇るロック・バンドです。伝統的なカントリー・ミュージックと現代的ロックが融合した音楽で、歌詞は全てフランス語。エッジの効いた諧謔と極私的な出来事から政治、歴史、環境問題にまで及ぶ多様なテーマを等身大に描きます。親しみやすいメロディーとナチュラルな編曲が聴く者を惹きつけて止みません。彼らはフランス語なので米国で殆ど聴かれていませんが、欧州を中心にフランス語圏では絶大な人気を誇っています。パリ公演では、ケベック訛りのフランス語の大合唱が会場を包み込むそうです。
初めてレ・カウボーイ・フランガンを聴いた日
私事で恐縮ですが、実は、私はつい数週間前まで彼らの音楽を聴いたことがありませんでした。それは6月4日の事でした。ブロック・ケベコア党のルイ=フィリップ・ブランシェット党首を公邸にお招きし夕食を共にしました。党首はマルチな才人で、政治家になる前は音楽プロデューサーでしたし、宮本武蔵の「五輪書」のフランス語翻訳も読破した知的な文化人です。政治・外交は当然ですが、科学技術から文化に至る多様な話題で盛り上がりました。音楽の話題になった時に、党首が最も好きなバンドとして強力に薦めて下さったのがレ・カウボーイ・フランガンだったのです。

その時に初めて聴いた曲は2004年の音盤『La Grand-Messe』に収録された「Les etoiles filantes」という曲でした。日頃ブリティッシュ・ロックやアメリカン・ロックを聴くことの多い私にとっては、アコーディオンの音色が印象的な洒落た響きが新鮮でした。リード・ヴォーカルのカール・トレンブレイの声と歌唱も耳に残るものでした。時に囁くように歌うので、フランス語の話せない私にも鍵になる言葉が胸に迫ります。芯の強い太くハスキーな声質は聴く者を惹きつける魅力があります。村上龍の最高傑作「コインロッカー・ベイビーズ」の主人公ハシの声はきっとこんなじゃないかと想像します。
要するに、一曲でレ・カウボーイ・フランガンのファンの末席に並びました。すると、もっと他の音盤も聴きたくなりますし、バンドの歴史も知りたくなります。ビートルズもローリングストーンズもビーチボーイズもザ・バンドもそうですが、成功した如何なる楽団なら必ず素晴らしい物語に彩られています。ファンになったばかりの私ですが、全ての音盤を聴き倒し、アクセス出来るインタビューや記事を読み倒しました。そこには、大きな感動がありました。是非、このコラムを読んで頂いている皆さまと共有したいです。
内気な少年の邂逅
レ・カウボーイ・フランガンは5人組ですが、バンドの要はボーカルのカール・トレンブレイとギターのジャン=フランソワ・ポゼの邂逅から全てが始まります。それは1994年9月、モントリオール郊外のアイス・ホッケーのジュニア・チーム「ジェッツ・ド・レペンティニー」のロッカー・ルームの事でした。カールとジャン=フランソワは他のプレイヤーと共にトレーニング・キャンプを終えて、正式にジェッツのB級メンバーに選抜されたのでした。
トリビアですが、ジョンとポールがリバプールの聖ピーターズ教会の夏祭りで出会ってビートルズが始まり、ミック・ジャガーとキース・リチャーズがケント州ダートフォード駅で話してストーンズが始動したのに似ています。
但し、ジェッツのチームメイトとなった2人が打ち解けて音楽の話しをするようになるには更に3ヶ月余が必要でした。俄かには信じられませんが、彼らのホームページによれば当時は2人とも内気だったそうです。
そして、1995年1月、カールは、ジャン=フランソワが上手いギタリストだと聞いて、思いきって彼に話しを持ちかけます。自分はボーカルでバンドを組みたくて仲間を探しているんだけど一緒にやってみないか、と。実は、ジャン=フランソワは最初は乗り気ではなかったそうです。
しかし、カールの熱意に押されてたジャン=フランソワは、翌2月のある夜、自宅の地下室にカールを招き、初めて一緒にジャム・セッションを行います。カールは、ジャン=フランソワのギターにサムシングを感じ、ジャン=フランソワはカールのボーカルに未来を感じました。その夜、2人は「Les routes du bonheur(幸福への道)」を作曲します。記念すべき最初のオリジナル曲です。バンド結成の瞬間です。2人は翌日も集まり次々と曲を仕上げていきます。夏までには、2人でつくった曲は20曲を超えたといいます。蜜の如く甘く同時に苦く辛い恋の痛みを描く碧い佳曲です。デビュー盤「12 Grandes Chansons」には、そんな創世記が刻まれています。
マリー=アニック・レピーヌ登場
2人はオリジナル曲でレパートリーを固めると同時に、バンドのサウンドの充実が急務だと悟ります。つまり、新たなメンバーが必要なのです。そんな中、夏のアルバイトで、ジャン=フランソワは、正式にクラシック音楽を勉強しているヴァイオリン奏者マリー=アニック・レピーヌと出会います。そして、強力に勧誘します。カールとジャン=フランソワには無い豊かな音楽的センスはさぞ眩しかったに違いありません。しかし、プロのオーケストラ入団を目指す彼女はカントリー・ロックという音楽スタイルへの関心は乏しかったようです。だからと言って、2人はマリー=アニックを簡単には諦めきれません。そして、時には情熱が運命を呼び寄せます。
1996年夏、地元レペンティニーの「ラ・リパイユ」というビアホールでソングライティング・コンテストが開催されました。カールとジャン=フランソワは腕試しに、上述の2人で作った最初の曲「幸福への道」と「Gaetane」という2曲のオリジナル作品を出品します。親しみ安い旋律とユーモラスな中に微量の毒のある歌詞に、カールの声が審査員を掴みます。予選を通過し、決勝トーナメントへと駒を進める2人です。観客を前にした2人の歌と演奏が場内を熱狂させます。その模様を見ていたマリー=アニックは、心の中で何かが弾けたのを感じたそうです。そこで、彼女は、準決勝のステージにサポート・メンバーとしてヴァイオリンを奏でます。ほぼ即興的に演奏したのですが、クラシックで鍛えたヴァイオリンの音色とフレーズは、カントリー調のシンプルな音楽に優雅さと豊かさを与えます。音楽的な厚みと深みが格段に増します。そして、3人は決勝へ進出。このコンテストで準優勝です。マリー=アニックの参加でレ・カウボーイ・フランガンの音楽的核が出来上がったのです。
レ・カウボーイ・フランガン始動
楽才溢れるマリー=アニックは、ヴァイオリンのみならず、ピアノやアコーディオン等のキーボード群、マンドリンも弾けます。編曲もボーカル、コーラスも出来ます。非常に強力なメンバーの獲得でバンドに弾みがつきます。バンドとして完結するには、フロントの3人と気の合うリズム隊が不可欠です。ベースとドラムです。やがて、マリー=アニックの従兄弟ジェローム・デュプラがベーシストとして加入。ジェロームが友人のドラム奏者ドミニク・ルボーを引っ張って来ます。当時、ドミニクは他のバンドで活躍していたのですが、半ば強引に誘い込みます。ここに5人組のレ・カウボーイ・フランガンが始動します。1997年のことです。

そして、この5人で早速、デビュー盤「12 Grandes Chansons」が制作されます。とは言っても、メジャーなレコード会社との契約もない、地元の作曲コンテストで準優勝となったアマチュア・バンドです。音質も優れない500本のカセットでした。今では、CD化され、ウェブでも聴けます。オリジナルのカセットはプレミアが付いて超高額で取引されています。
飛翔

彼らの初期の傑作「break syndical」は2002年の作品。まず、批評家から好意的なコメントを得ます。そして、地元レベンティニーやモントリオール周辺で絶賛され、やがてケベック州を横断する聴衆から愛されます。ケベック州内を公演ツアーで回ると、音盤ジャケットのモチーフになっているグリーンのTシャツが会場を覆い尽くしたといいます。
ライブでこそバンドは真の実力を蓄積していきます。ラジオ局も頻繁に彼らの曲をオンエア。彼らは、一躍ケベックを代表するバンドとなります。
レ・カウボーイ・フランガンは超多作ではありません。じっくりと創り込んだ良質のスタジオ音盤と熱狂を伝えるライブ音盤をコンスタントに発表していきます。それらは、ケベックの現代音楽の歴史の重要な章です。
伝説〜カール最期の日々

人間誰しも不死身ではありません。いつかは最期の日々がやって来ます。一方、医学の進化が人生百年を日常化しています。そんな中、バンドの創設者でフロントマン、カール・トレンブレイが前立腺がんに冒されます。2020年1月の事でした。が、この事実は秘匿されていました。がんと闘いながらもライブとスタジオを精力的に活動するカール。レ・カウボーイ・フランガンは、難しい局面の中で、2021年には、名作「Les Nuits de Repentigny」をリリースします。がんの事を一切知らないファンは、ただただ、極上の音楽を愉しむのです。エルビス・プレスリーを模したカールの写真に、彼の矜持が滲んでいます。
2022年には、カールが化学療法を受けていることが公表されます。
2023年9月、遂に、最後のライブが敢行されます。毎年ロデオ大会が開催されるケベック州サン=ティトに彼らのファンが結集しました。
2ヶ月後、11月15日、カールが47歳の若さで他界。トルドー首相は「カールの声は、私たちの物語を語り、心を打つ力を持っていた」との談話を発しました。ケベック州政府は、州旗を半旗にし、追悼の意を表しました。また、カールとバンドの28年間に及ぶ活動を讃え、11月28日にケベック州の「国葬」が執り行われました。
結語

レ・カウボーイ・フランガンは、ケベック州に加え、欧州のフランス語圏で絶大な人気を誇っています。最新盤は2024年4月に発表された「Pub Royal」です。ここには12曲収録されていますが、6曲はカール・トレンブレイの最後の録音です。正に“白鳥の歌”です。これは、全カナダのアルバム・チャートで初登場3位を記録します。ケベックを超えてカナダを象徴するバンドでもあることを示唆しています。
また、カール・トレンブレイは、環境問題に強い関心を持っていて、ある時、「売った音盤の数だけ木を植えている」と語りました。彼らは、これまで130万枚を超える音盤を売り上げています。と言うことは、130万本を超える植樹をして来た訳です。
レ・カウボーイ・フランガンの音楽は、樹木のように、聴く者の心に根を張り、世代を超えて聴き継がれていくのだと思います。
(了)

山野内勘二・在カナダ日本国大使館特命全権大使が届ける、カナダ音楽の連載コラム「音楽の楽園~もう一つのカナダ」は、第1回から以下よりご覧いただけます。
山野内勘二(やまのうち・かんじ)
2022年5月より第31代在カナダ日本国大使館特命全権大使
1984年外務省入省、総理大臣秘書官、在アメリカ合衆国日本国大使館公使、外務省経済局長、在ニューヨーク日本国総領事館総領事・大使などを歴任。1958年4月8日生まれ、長崎県出身